勝てば官軍なのか
皆さんは柴五郎という会津人をご存じでしょうか。今年は磐城平戦争で磐城平城が落城して、
150年という節目の年です。同じ年に会津若松城もあえなく官軍の手に落ちてしまいました。
柴五郎は明治維新の10年前の安政6年に城下の有力な武士の子として生を受けました。没年は
大東亜戦争終結の昭和20年12月13日、87才でした。幕末には67万石を誇る屈指の大藩
でしたが官軍による屈辱的仕打ちによりわずか3万石に減封、藩士は城下を追われて下北半島の火山灰地
に押し込められるという憂き目に会いました。3万石とは名ばかりの新領地は半年雪に閉ざされる
という痩地で実収わずか7千石になればいいほどでした。武家の家に成長した柴少年の寒冷地での
生活は惨めそのもので、想像を絶する地獄生活といえるものでした。
そんな彼が15才の時陸軍幼年学校に入り、その後の奮闘努力により大本営陸軍参謀に累進したときは
36才でした。薩摩長州閥以外で高級参謀になることができたのは異例中の抜擢でした。
42才には北京駐在武官として赴任まもなく義和団事件に遭遇して北京籠城の指揮。一躍彼の沈着な
指導により、世界各国から優れた指揮官として喝采を浴びたのでした。
大正8年には陸軍大将、台湾軍司令官そして軍事参事官として軍人最高の栄誉を勝ち得た生粋の
会津士魂の武士でした。われら福島県人の誇りです。
『ある明治人の記録』(会津人柴五郎の遺書、石光真人編著、中公新書版)を参考にしました。