慈雲尊者についてはときどきこのブログでも紹介しております。今回は尊者母堂の書簡を紹介したいと思います。
文にて申参らせ候。朝夕はひへびへ敷なり参らせ候へども、彌々御かわりの御入なされ候よし、
何より喜敷(ぞんじ)参らせ候。しかれば聴衆御方より起信論の講席御ねがひのよしに候へども
いまだ御すぐれなされず候ゆへ、先御せう引も御ざなきよし、御尤にぞんじ参らせ候。此ぎはた
とひ御病気すきとすきとよく御入候とも、御うけは御むようとぞんじ参らせ候。そうたい、かう尺も
ほつきの御入にしたがひてなされ候ては、經おわれば論、ろんおはりなれば律と、しだいに相つづき、
これぞと申かぎりもなく、一生かう尺坊主になりておわる物にて御ざ候。わが身にけんならば、此の
たびの病気ゐんゑんとなされ、是より事をはぶき縁をしりぞけ、日夜ざぜんしゅ行を御心がけ、自ら
生死を解脱して、此げだつを以、人をも利益なされ、わが身も善所へ御いう引候へかしと、あさ夕ね
がふ事に御ざ候。 めでたくかしこ
慈雲律師 母
かへすがへす小利をみるものは大事をなさずとかや申せば、かならずかならず小名聞小利益を御
かへりみ、生死しゅつりの大利益と御わすれ候ことはあるまじきこととぞんじ参らせ候。くわしくは御
めもじと、あらあら申しのこし参らせ候。めでたくかしこ
この書簡は尊者23歳ごろ、母堂56歳ごろのものである。(木南卓一先生解説)
この文章を数回朗読すれば、母堂の尊者に期待するところが大きいことがわかります。とともに世間的名声に
魅かれて和尚本分の大悟をめざすこのと大切さを切々と訴える実の母の見識溢れる姿が伺えます。
江戸時代の母の偉大さはとんでもなくすばらしいです。まさにこの偉大なる母ありて稀有な尊者は大成せり。