春分・雨水そして啓蟄という季節はいわば木の芽立ちが目立ちます。
これを角(つの)ぐみともいうそうです。それを西晋一郎先生がじつに
丁寧に説明しておりますので、紹介します。
人間が、春、芽が出るとか花が開くとかに即して、天地の活物である事を直観するので
ある。観よといっても、実験観察のようなからくりを用い、それに当てはめて現象を
見るのではない。見ようという心もない。人智を設けないで観ることである。
天地万物を生ずるのも、この生ぜんとする意を一番観るべきである。葉が繁茂していると
形は生と見えるが、万物の生意はそういう所には見えない。例えば、冬、雪を分けて
山に入ると、——松の木のようなのは何時も青いから却って生気が観られない。雑木林
がよい。——–葉は落ちてしまって未だ芽の出て居らぬ、固く芽を包み蔵(しま)って
おる其の時に、何となく生気を感ずる。生々の感じを受ける。
未だ発せずして発せんとして居る方に生気が見える。表面(おもて)に出てしまうと
もう影になってしまう。これから出ようとするものに一番生気がみえる。何事でも
そうだろうと思う。——–仁は出ようとする根元であって、愛情として発せる所を
言わない。万物の生意、そこに仁ということに気が付いてくるのである。(「易近思録
講義」)
こういう文章を味わえるのがこの季節ですね。